久しぶりに津に行ってみると博物館が完成していた。
正式には三重県総合博物館、略称MieMu(みえむ)と言うようだ。
作っていたのは知っていたが完成したのは知らなかったので、その立派な建物に感心し、早速見学をしてみた。
写真は博物館の中央に展示されていたミエゾウ(ステゴドン・ミエンシス 300~430万年前に生息)の全身復元骨格で、国内最大の陸上哺乳類とのことで、その化石が三重で初めて発見された由。
展示室は三重県の歴史で「大地のなりたち」から始まり、三重の自然、三重の人・モノ・文化、というように順路を進んで行く。
三重県に生まれ育った訳では無い私にはかえって色々興味を持てた。
そんな中で、大きく興味を惹いたのが伊勢参りに於ける「御師」(おんし)というものだった。
もとより、三重県には伊勢神宮があり、江戸時代には日本中から多くの人が参拝に訪れていたことは周知のとおりである。
(下は伊勢参り曼荼羅図)
しかし、何故そんなに伊勢神宮を目指していたのか、以前より不思議なことだった。
伊勢神宮が日本の神社の最上位に位置することから、多くの人が訪れるのは当然とも言えるのだが、ただ、その姿が東海道中膝栗毛の弥次喜多ではないが、何やら楽しげに感じるのである。
というのも、例えば四国のお遍路さんのような心・身・体を磨くというようなものも感じないし、キリスト教のスペイン・サンティアゴ巡礼のような信仰心の重みも感じない。
あくまで私の個人的な思いではあるが。
展示物に話を戻すと江戸時代、どうも伊勢参りでは5日~1週間も滞在して、「御師」により大変なおもてなしを受けていた、とある。
これが滞在中に振舞われた食事で、このようなご馳走に勿論お酒は飲み放題。
それも毎日、メニューを替えて贅沢そのものの食事が出された。
なんじゃ、これは、何という贅沢。どうなってるんだ。
その宿泊場所がこの模型で、御師の屋敷であり、何とも立派なものだ。
この屋敷は三日市大夫次郎邸で最も大きく、延べ床面積800坪、部屋は32室、100人程が宿泊出来て、屋敷内に30畳の神楽殿も備わっていた。
こうした御師の屋敷は沢山あり御師町を形成していた。
と、尚更どうなっているのか判らないので帰宅後一寸調べてみた。
そもそも、伊勢神宮は天皇以外の者が参拝することを禁止されていた。
そこで天皇以外の人がお参りし、ご祈祷を受付ける為に下級の神職が存在した。それが御師ということで、そのご祈祷は御師の屋敷内の神楽殿で行われた。
また、御師の職域は幅広く、七色の顔を持つとも言われ、神職と集金、宿泊食事、神宮参拝案内、観光案内、町の時事、それに言わば旅行代理店の役割、なども行っていた。
御師のもてなしの一例をあげてみよう。
まず伊勢に入るには宮川を渡る。その宮川を渡るところから御師が運営していた無料の「御馳走船」で迎え入れられ、渡ると茶屋や旅籠が並び、そこで担当の御師邸からの迎えを待つが、その間、酒や食事が無料で振る舞われた。
やがて御師が来ると籠や馬に乗せて御師邸へ案内される。赤い毛氈を敷いた籠、荷物の運搬は紅白の手綱をつけた馬も用意された。因みに御師邸は900余りもあった模様だ。
そして御師邸に着くと、前述のご馳走から寝具に至るまで、至れり尽くせりのもてなしを受けた。
数日の滞在中に、神楽殿で神楽を上げて奉賽し、その後、伊勢神宮の外宮、内宮に案内され参詣した。
そして観光として二見や朝熊山へも御師が案内した。
滞在後の帰りには沢山の土産と共に、このような立派な弁当まで持たせた。徳利は当然お酒。
こうして檀家の参宮者に便宜を図っていた。
あるいは御師は全国の檀家を訪ねていたようで、営業努力も怠らなかったようなのだ。
ザックリと書くとこんな感じであり、詳しくは「御師」で検索して頂くと興味深いものと思う。
こうしてお伊勢参りは格別のものとなっていた模様で、とあれば、楽しげに思えたのも外れていた訳でもなさそうだ。
下世話な話、お金はどうなっていたのか、と思ってしまう。
それは神楽の費用で支払われたようで、その神楽の種類もいくつかあり、今の金額で数万円から数百万円だった模様。その費用から伊勢神宮に奉納金が支払われていたと思われる。
檀家とはいえ、武士や大家、お金持ちがそうした贅沢なお参りをしていたのであろうし、弥次喜多のような庶民は、そんな贅沢は味わえなかったに違いない。
しかし、こうした伊勢周辺の環境からは、お伊勢参りが格別のものだったのだろうと想像される。