「鈴鹿の夏は耐久レース」というイメージがある。
というのも例年、ご存知の2輪の耐久レース「8耐」こと「8時間耐久ロードレース」が7月末にあり、8月の中旬には4輪の「鈴鹿1000km」で知られ、今年は「インターナショナル ポッカGTサマースペシャル」と呼ばれる耐久レースが開催されるからだ。
しかし実は7月に、もうひとつの耐久レースがあった。
それは「鈴鹿クラブマンレースRound4 Endurance stage」と呼ばれるレースで、鈴鹿クラブマンレースの一環であり、つまりプロではなく、アマチュアを中心とした耐久レースだ。
いつもはスプリントレースとして開催している色々なカテゴリーの車を、この時は一緒に耐久レースとして使い、楽しもう、というもので、耐久レースは2名~3名で組むので、色々な人が組んで参加してくる。
「マムシの秀六」と呼ばれた豪快なドライバーが居た。
本名は佐々木秀六氏で、私の知人でありレースの先輩にあたる。
1980年度のF3チャンピオンをはじめフォーミュラレースから耐久レース、ツーリングカーレースなど数々のレースで活躍したドライバーだ。
彼にレース中に狙われたら、まず敵わない。
接触しているのではないか、と思うほどコーナリングの最中でも後ろにピッタリ付けられ、バックミラーには車が大きく写る、というよりも、近過ぎてヘルメットが大きく写り、強烈に威圧してきた後、とてつもなくブレーキを遅らせ、あるいはブレーキを掛けて入るコーナーをアクセルを開けたまま飛び込み、相手を抜くや鼻っ面にブレーキを掛けながら入って来る、といった具合で、まず狙った獲物はやっつけるのだが、そんなところからか、いつの日が「マムシの秀六」なるニックネームがついた。
その日、パドックを歩いていると「ハタやん」と親しげに声をかけられた。
見ると、その佐々木秀六氏が、新調したと思しきレーシングスーツを着て、いるではないか。
長男でプロのレーシングドライバーの佐々木孝太君と組んで、この耐久レースに出ていると言う。何10年ぶりのレーシングカードライブとなる。
(写真では胸に、その「マムシの秀六」の刺繍があるが、このレーシングスーツのメーカーの社長が勝手にプレゼントしたもの、との由)
息子と組んで耐久レースに出る、というのは何とも微笑ましい姿。ピットで見ているとドライバー交代の練習などもしていたが、もう、完全に孝太君がチームの主導権を握っており、秀六氏の動きが遅いと叱る姿まで見られ、あの「マムシの秀六」氏が叱られる姿に笑ってしまった。
写真は白/紺ヘルの秀六氏に色々指示をする白/緑ヘルの孝太君。
で、レースの方はというと、前日の予選前の練習走行でドライブシャフトが折れるトラブルにより第1ドライバー枠の秀六氏の予選走行が出来ず、その後、第2ドライバー枠で孝太君が全体トップタイムを出したものの、規則により最後尾スタートとなってしまった。
孝太君がスタートドライバーをすることになったので、スタート後はドンドン抜いて行き、長距離レースなので、最終的にはトップ争いまで持ち込めるのではと思われた。
想像どおり、孝太君はトップの車よりも速いラップタイムで次々と抜いて行く、そして、いよいよ秀六氏にドライバー交代。燃料補給をし、規定の60秒ピットインタイムを消化してコースに出て行った。そして、孝太君には及ばないが、かなり良いタイムで周回していた。
すると「D 1」なるボードがメインタワーから出された。つまり、ゼッケン1番にドライブスルーペナルティで、ピットインしピットレーンを60km/h以内で通過しなさい、というもの。どうもドライバー交代をして出て行く時にピットロードで制限速度の60キロ以上を出してしまったようで、ペナルティが発せられた。
ボードが提示されて3周以内に入って来ないと失格となるので心配したが、ちゃんとピットロードを走り、ペナルティを消化した。
やれやれ、かなりタイムをロスッたが、これでまたペースを上げて前を追うことになる。
そして数周走ると、何と何と、再び「D 1」ボードが出たでは無いか。
それは、先程のドライブスルーペナルティでピットレーンを60キロ以下で通過をする時に、再びスピードオーバーした模様。
「あーあ、ダメだ、コリャ!」
という訳で、それでも最後は孝太が再び乗って追い上げ、何とか4位にまで上がりチェッカーを受けた。
まあ、我々の時代にはピットレーンのスピード設定など無かったし、ピットを出たら、ついつい勢い込んで走ってしまう習性がついている。60キロはサーキットでは恐ろしく遅いスピードでもあり、ついぞオーバーしてしまうのも理解出来るんだよな。
ということも含め、何ともほのぼのとした、もうひとつの耐久レースではあった。