懐かしのHONDA S600

Automobile

我が家のテレビ台の飾り棚にはホンダS600の模型が飾ってある。
あまり車や鉄道の模型をリビングに置くのは好きでは無いのだが、これは特別だ。

先日、NHKテレビで「グレースの履歴」というドラマが放映された。
ホンダS800にニックネームとして「グレース」と名付け、そのS800で主に滋賀県を舞台にストーリーが展開されるもの。
そのストーリーもなかなか面白く、俳優の演技も興味のあるものだったが・・・
それよりも、ホンダのS800と琵琶湖周辺の景色に昔を懐かしく思い出してしまった。

実は、私が初めて購入した車がホンダS600だった。
というと、まるで小金持ちの息子のように思われるかも知れないが、実体は全くその逆。
私が二十歳前だった頃、自分の進路を考えていた頃だ。
車は好きで車雑誌をよく見ていたが、自動車の高性能の頂点たるレースを一度見てみようと、知人のバイクを借りて鈴鹿サーキットにレースを見に行った。
実際に見たレースは、それまで思っていたような”命がけ”とか”乱暴な競技”ではなく、素晴らしいドライビングで車を操る姿に感銘を受けた。
中でもニッサンの高橋国光(氏)のドライビングは、まるで芸術のようにさえ感じていた。
そして、知らぬ間に自分の中ではレースをしようという意識になっていた。
しかし、その時は安サラリーの上、貯金もゼロ、レースを始めるには最悪の状態だった。
そこからケチケチ生活をして、何とか小銭を貯めて、東京の中古車ショップで16万円で購入したのが、このS600だった。
そして、すぐに琵琶湖大橋の袂にあった「琵琶湖スピードランド」というハイスピードのジムカーナ場に持ち込み練習を開始したのである。
という訳でホンダのS600そして琵琶湖畔は私のモータースポーツの入口であり、よってドラマを見て懐かしく思い出してしまった、という訳だ。

残念ながら「琵琶湖スピードランド」での写真が見当たらず、これは琵琶湖畔のダートを走り回っていた時の写真だ。
その後、琵琶湖のジムカーナから鈴鹿のレースへと移り、色々なレースに参加して、最終的には当時世界で最もハイレベルと言われたイギリスのF3レースに出てレーシングドライバーを引退した。

引退後は、レーシングカーの製造販売、レーシングチーム監督、レーシングスクール校長や各種レースの協会での活動など、ここでは書き切れないレースに関わる仕事をしてきており、結局、生涯レース屋さんだったと言えようが、その始まりがホンダS600だった訳だ。

ついでながら、飾り棚にはもう一台模型が並んでいる。
黄色いスポーツカー、VEMAC(ヴィーマック)RD200である、以前に勤めていた東京アールアンドデー社から頂いたものだ。
実は、このVEMACの発案は私で、やはり私が設計したレーシングカー「カドウェル」をベースに市販乗用車(スポーツカー)を作りたい、とのことから始まった大きなプロジェクトだった。
最終的に型式認定が可能なイギリスで製造して日本国内で10数台を販売した。

そんな経緯があり、すでにリタイア後の私に、模型が出たからと届けて頂いた記念の品物なので大切に飾ったものだ。
その時「赤か黄色のどちらかを選んでください」と言うので、私は惑わず黄色のVEMACを選んだ。
それは、黄色のVEMACにはドライビングでも頑張った思い出があったからだ。
愛知県の幸田サーキットでタイムアタックをしたのだ。というのも、自動車誌にこの幸田サーキットでポルシェやロータスやNSXをはじめ10車種余りの車を有名なレーシングドライバーがタイムアタックした記事が掲載された。はたして我々のVEMACはどのあたりの速さの車なのか、を知る目的で走行することにしたのだ、ライバルたるロータス・エキシージは凌ぎたいと。
ロータス・エキシージのタイムはあっさりと破れたが、レース屋の性が出てしまい、何度かサスペンションのセッティングを行い、結局、全ての車を超えるタイムを出してしまった。
証拠とばかりに後ろの計測ボードに47’60が表示されている写真を写した。(下写真)
久々に目一杯のタイムアタックを何度か行いヘロヘロになったが、人生最後の全力走行だった。

ということで、レースの世界への始まりだったホンダS600と、車作りとドライビンク最後の全力走行となったVEMAC RD200を飾り棚に陳列している訳だ。

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